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真宗門徒の一年つれづれ日誌

  1. お寺のある暮らし

  2. 覚永寺門徒・いろはさんの一年
    (昔からお寺との付き合いがある/今年は祖父の七回忌が控えている)

  3. 覚永寺門徒・ほへとさんの一年
    (年始に母を亡くし、初めてお寺と付き合う)

お寺のある暮らし

お寺はいつお参りしても良いところです。たとえば、散歩の途中に立ち寄って本堂に上がって、ゆっくり時間を過ごす…というのも良いですね。毎日お墓参りに来られる方もいらっしゃいますが、日々の暮らしのなかで無理のない程度に訪れていただければと思います。

 

その他にも、お寺では1年のうちにさまざまな行事が行われています。また、お仏壇をお迎えする、結婚式をあげる、初参式をするなどの機会にもお寺との関わりは生まれます。そういった特別な行事をきっかけとして、ときどきお寺に参ってみよう!と思っていただくのも嬉しいことです。

 

とはいえ、はじめてお寺と関わりを持つ方は「みなさんはいつどんなタイミングでお参りしているんだろう…」と不安に思われることもあるかもしれません。そこで今回はいろはさんとほへとさんという架空の覚永寺門徒の方に登場していただき、彼らの1年の日記を覗いてみていただこうと思います。ぜひ、参考にしてみてくださいね。(執筆ライター:小嶋)

覚永寺門徒・いろはさんの一年

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昔からお寺との付き合いがある/今年は祖父の七回忌が控えている

 1月15日の日記 

昨日、今日と覚永寺の御正忌報恩講にお参りをした。御鉢米は先日お墓参りに行ったときにお渡ししておいたので、法座へはご法礼だけ持参。あとはお念珠と式章も。本堂は寒いので、ひざかけも忘れずに。今回は、全日程でのお参りは叶わず、14日と15日のご法座だけ。いつか本願寺の御満座にお参りしてみたいものだ。1月16日の本山では、親鸞聖人の好物と伝えられる小豆を使った善哉が振舞われるのだとか。食べてみたい。

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御鉢米:もともとは、お布施とともに持参した米のこと。現在では米ではなく、お金を包む場合が多い。寺院の1年の運営費や修繕費に当てられる。

ご法礼:法会をいただいた礼、という意味のご法礼。お布施と大きく意味は違わない。

御満座:数日間にわたる法会の最終日のこと。

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 2月10日の日記 

仕事が早めに終わった。そういえば、今日は祖父の月命日だったと思い立ち、仕事帰りに浜田千畳墓苑に寄ってお墓参りをした。お花と水をかえて、手を合わせる。ゆっくりしたかったが、あまりに寒くて早々に帰宅。今晩の夕食は常夜鍋。熱燗と合わせれば、体も温まるし、いつまでも食べていられる。

 

 3月10日の日記 

彼岸の入りにはまだ早いが、祖父の月命日と合わせてお墓を掃除した。それからお寺にも行って、4月の年忌法要の日程を相談した。親戚が集まれるよう、土曜日の午前中に本堂でお勤めしてもらうことに。

 

 3月20日の日記 

覚永寺の春彼岸法要にお参り。「暑さ寒さも彼岸まで」なんて、もう通用しない慣用句だ。まだまだ寒い日は続く。少し鼻風邪気味なので、卵酒を作った。

 

 4月10日の日記 

今日は祖父の命日。祖父が亡くなってもう7年。お寺でのご法事はもう少し先だけど、今日は出勤前に家族だけでお仏壇の前で讃仏偈をおとなえした。24日の法事に向けての準備もだいたい整ったと思う。今回は法事のあとで、みんなで食事。昔はお斎(とき)を家で作っていたらしい。精進料理の作り方を、少しは覚えておきたいから、母が元気なうちに習っておかなくては……と、ずっと考えているけれどなかなか行動には移せていない。

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讃仏偈:浄土真宗で最も大切な経典のひとつ「仏説無量寿経」のなかに登場するうた(偈)。大切な要素がギュッと詰まった部分を抜き出した短いお経のため、日常のなかでよくおとなえされる。

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 4月24日の日記 

今日は覚永寺で祖父の七回忌のご法事。久しぶりに礼服を引っ張り出して、昨日から吊るしておいた。お念珠と、式章、お墓のお花、お布施も準備。食事は家族だけで行くので、御膳料も用意。ご住職は、次の予定があって会食の同席は難しいとのこと。法事はつつがなく終わった。最近忙しくてバタバタと過ごしていたけど、本堂に座ってゆっくりお経をおとなえしていると少し心が落ち着いた。

 

 7月1日の日記 

今年は仕事が忙しく、安居会には行けない。両親は二人揃って行くらしい。そして今晩の夕食は焼き鮎!私の大好物!細かく刻んだ蓼の葉を浮かべたポン酢につけて、いただく。お酒が進んで仕方がなかった。

 

 8月13日の日記 

帰省している末の妹と一緒に、早朝からお墓参り。この時間ならまだ涼しいし、蚊も少ない気がする。お墓を掃除して、花を替える。お寺にも足を伸ばして、本堂にお参りをした。

 

 8月20日の日記 

歓喜会にお参り。お盆のお寺って、なんだかすごく懐かしい気分になる。

 

 9月20日の日記 

秋彼岸法要にお参り。今日のご法話はわかったような、わからなかったような…でも、いつか「なるほど」と思う日が来るかもしれない。彼岸になっても暑い日が続いているけれど、朝夕は少し秋の風も感じられる。秋の味覚が楽しみな季節。

 

 10月10日の日記 

祖父の月命日にあわせて、報恩講のお参りに来ていただいた。昨日は準備のため、家族総出で仏間と仏壇を綺麗に掃除。家の前の道も掃いておいたので、準備OK!と思ったら、母がお布施の中身を入れ忘れていたことが直前に判明。慌てた……。お参りはつつがなく終わった。本堂でのお参りも広々としていて好きだけれど、住み慣れた家にお寺さんに来ていただいてお勤めするのもそれはそれで良いものだなと思う。

 

 10月16日の日記 

両親が慶老法要にお参りしたらしい。家に帰ったら、友人から季節の栗菓子が届いていたので、お茶を淹れてみんなで食べた。

 

 12月9日の日記 

両親が芋法座へ行ってきたらしい。その際に、先月産まれた甥っ子の初参式についても相談したのだとか。暖かくなったころにするつもりみたい。かわいい甥っ子の、最初の仏事だ。亡くなった祖父がよく言っていた言葉を思い出す。「嬉しいときも、悲しいときも、仏様にご報告したらいい。そうか、そうかと一緒に喜んでくださるし、一緒に悲しんでくださるから」

 

ごはんを食べる人
ハイハイする赤ちゃん
焼き魚のイラスト
お墓のイラスト

覚永寺門徒・ほへとさんの一年

年始に母を亡くし、初めてお寺との付き合う

 1月29日の日記 

母が亡くなった。最後は家族で一緒に過ごすことができた。とはいえ、すぐに葬儀のことを考えねばならない。父はすでに亡く、姉も妹も勝手はわからないという。とりあえずお寺に電話。すぐに枕経に来てくださるとのこと。「なにもわからない」と相談すると、信頼できる葬儀会社もご紹介いただいた。少し安心した。

 

 1月30日の日記 

親戚が弔問に訪れる。必要な段取りは葬儀社の方が進めてくださるので、私は久しぶりに会う親戚と話をした。すると、聞いたことなどなかった母の若い頃の話や、「あなたのお母さんには本当にお世話になった」という話を多く耳にした。長く親子をやっていても、親のことなどほんの少ししか知らなかったのかもしれない。こんなに母のことをいろんな人と話したのは初めてで、母という人とまた出会い直したような気がした。夕方、葬儀会館に移動し、18時からお通夜。ぼんやりしてしまい、ご法話はあまり頭に入らなかった。でも、お通夜の雰囲気は悪くなかったと思う。母を慕ってくれる人たちの集まり。

 

 1月31日の日記 

10時から葬儀。たくさんの方がお参りしてくださった。不安だったお焼香の作法や喪主挨拶のタイミングも、葬儀会社の方が合図をしてくださったので、無事に終わった。出棺、そして火屋勤行。火葬場でもお勤めをするなんて知らなかった。父のときにも経験していたはずなのに。でも、すぐに火葬するよりも、お勤めの時間がある方が落ち着くなと感じた。とはいえ、非常につらいひととき。この悲しみが癒える日なんて来るのだろうかと思う。同時に、悲しみを忘れるのは、母を忘れることのようでそれもつらい。

 

 2月7日の日記 

初七日のお参り。これから毎週、49日まで7日ごとのお参りが続く。仏間を綺麗に掃除して、仏壇も整える。葬儀会社がくださった中陰段に母の遺影を置き、母が好きだったお菓子を添える。お布施とお茶を用意して、お寺さんを待つ。

 

 2月14日の日記 

二七日(ふたなのか)のお参り。今日は、法話の内容がなんとなくわかる気がした。

 

 2月20日の日記 

三七日(みなのか)のお参り。本来ならば明日が三七日だが、都合が悪いため、1日ずらしてもらった。

 

 2月28日の日記 

四七日(よなのか)のお参り。毎週こうしてお勤めの機会があるのは、良いものだと感じる。正直、最初は手間がかかると思ったけれど、こうして定期的に母のことを語り合ったり、人を迎えるために家を掃除したり、法話を聞く機会があるからこそ、悲しみを持て余さずに済んでいる気がする。

 

 3月7日の日記 

五七日(ごなのか)のお参り。「誰かとの別れが『悲しい』ということは、それだけその人と過ごした時間が素晴らしかったということ。だから無理に悲しみを拭わなくても良い」というお話が印象的だった。そうか、悲しいということは、母とともにあるということでもあるのか…。

 

 3月14日の日記 

六七日(むなのか)のお参り。このごろ、法話をお聴聞(法話を聞くことを「おちょうもん」と言うらしい)するのが好きだ。普段は気づかないふりをして忙しく過ごしていたことに目を向ける良い機会だと思う。

 

 3月22日の日記 

七七日(なのかなのか)、つまり四十九日のお勤め。本来は昨日が49日目だが、お寺のご法座があったため、今日になった。これまでは少人数で自宅で勤めていたが、今日は本堂でお経をあげていただく。春が近づいているのがわかる、少しあたたかな風が吹いていた。ご法事のタイミングで永代経もあげた。それから、納骨も済ませた。母は、覚永寺の敷地内にある納骨堂に入れていただくことにした。私には後を継ぐ者がいないし、姉も妹も家を出ているので、頃合いを見て以前からのお墓は墓仕舞いをして、他のお骨も覚永寺の納骨堂に預かっていただくようにしたいと思う。

 

 4月10日の日記 

母の百日(ひゃっかにち)の法要をお寺の本堂で。もう100日も経ったのか。早いなぁ。一人暮らしにもずいぶん慣れてきた。

 

 4月17日の日記 

永代経法要にお参りしてみた。母との別れをきっかけとして、ときどきご法話をお聴聞する機会を持ちたいと思うようになった。聞けば覚永寺では毎月なにかしらご法座が開かれているらしい。予定が合えば行ってみたい。なにか特別な用事がなくても、お寺に来ても良いのだとこの年になって知った。ご法座も、お念珠とご法礼(無理のない額で良いとのこと)だけ用意して気軽に行けるものらしい。

 

 4月18日の日記 

近くに住む小学生の甥っ子が、急に1人で訪ねてきた。腕には小さなサビ猫。「おじさん、この猫助けてあげて」と言う。猫風邪を引いているようで顔がガビガビ。かわいそうだったので、病院に連れて行き、少しの間だけ世話をすることに。

 

 7月20日の日記 

安居法要というものにお参りしてみた。インドで、雨季の期間にお坊さんたちが集まって修行をするという雨安居がもととなった行事なのだそう。浜田も今日は小雨が降っている。家に帰ると、猫がしっぽをピンと立てて出迎えてくれた。えらいえらいと褒めながら部屋に入ると、隠しておいたはずのエサが引っ張り出され、部屋中に散乱していた…。

 

 8月1日の日記 

お墓参りに行ったとき、初盆のお参りについても相談した。盆提灯はどうしましょうか…と尋ねると「もしかしたら、どなたかがくださるかもしれませんよ」との返答。帰宅すると電話があり、遠方に住む叔母(母の姉)が盆提灯を注文してくれたとのこと。タイミングの良さにびっくりしたが、これで安心。

 

 8月14日の日記 

初盆のお参り。前日までに家を掃除し、お仏壇の仏具を磨いて(磨き方はyoutubeに載っていた。すごい…)、盆提灯も設置、座布団も天日干しをして、お茶の準備もOK!こういったことは、これまで母に任せきりだったので、これで正解なのかどうかわからないが、ご住職に相談すると「あまり気負わず、できることをなされば大丈夫。わからないことがあれば聞いてください」とのことだったので、あまり悩みすぎないことにした。

 

 8月15日の日記 

近所で盆踊りをしているらしい。音が聞こえてくる。そういえば、浄土真宗のお盆では迎え火や送り火を焚かないのだとか。精霊馬などはお盆の風物詩なのだろうと漠然と考えていたが、それもしないのだそう。浄土真宗では、亡くなった方は迷うことなくすぐにお浄土に生まれ、仏となって私たちのそばにいつでもいてくださる…と考えるのだとか。だから、お盆にわざわざ迎えたり、送ったりする必要がないという理屈だ。知らないことを知るのは楽しい。母にももっといろいろ聞いておけば良かった。

 

 9月21日の日記 

秋彼岸法要にお参りしてみた。

 

 10月31日の日記 

母の月命日なので、お寺にお参りをした。納骨堂で手を合わせ、それから本堂にあがってまたお念仏をした。法事や法座のときじゃなくても、本堂にあがって良いのだというのを最近になって知った。

 11月20日の日記 

報恩講のご法座へお参り。秋が深まり、猫も冬毛に生え変わり、ふわふわとしてきた。

 

 11月22日の日記 

報恩講のお参りにご住職がお勤めに来てくださった。

 

 12月31日の日記 

母との別れから始まった1年。悲しいし、寂しい日々だったけれど、新たな出会いもあった。年が明けたら、一周忌の準備だ。余裕があれば御正忌報恩講のご法座にもお参りしたい。近頃は寒いからか、猫がよく体を寄せてくる。この猫ともいつか別れねばならないのだろう。そのことを考えるととてもつらい気持ちになるが、だからといって今を蔑ろにしてはならない。「遠い未来ではなく、『今、ここ』の救いが阿弥陀さまのお救いなのだ」と教わった。その意味がよく理解できているわけではないが、これからも考え続けてみたいと思う。

 

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